雑録・雑想

雨の一日(2)

終日雨降り止まずだったから「晴撮雨読」の雨読の一日になる筈だったが、読書もせず呆け暮らしが続いていた。書斎の片付けもしなくてはならないのだが、少し肌寒い状況だ、2階に上がることもなかった。 ボケ防止の為にと、写真のモノクロ化を始めることにす…

鳥撮り不作

陽射しの暖かい田圃道で2時間ほどいたが鳥撮りは不作だった。 田圃道にいた間、ケリがスクランブルをかけるように急上昇して、縄張りに侵入してくるトビに挑みかかるのを3度ほど目撃した。甲高い啼声を上げながら執拗に追い回すのだ。これまでにこんなシー…

ツクシのある記憶

鳥撮り用の重いヤツを持ち出す気にもなれなかったので、今日は100mmマクロと17-70mmズーム、それと70-300mmズームを用意した。虫探しが狙いだ。休憩時のためにポットに詰めたコーヒーも持って出掛ける。目的地は琵琶湖に注ぐ川の土手道。 土手道では、ベニシ…

カラスの獲物

田植えのための準備作業として一番最初に行われる畦の切り欠け作業があちこちで見られるようになった。今日も2ヶ所で行われていた。 畦の一部を切り崩したところは、トラクターが入った後の泥田から土をかき揚げ新しい畦を作るのだ。この新しく作った畦を利…

鳥撮り不作

今日は鳥撮りは不作だったかと思いながらフィールドを一周した後、田圃道を引き返す。「上に飛鳥無く、下に走獣無し」そんな文言を口ずさんでいて、随分以前に、龍谷大名誉教授山田明爾先生(故人)の講座「法顕伝」で先生が朗詠していた時のことを思い出し…

カエルの記憶

「雨の一日」のブログにmomijiteruyamaさんからコメントが寄せられ、teruyamaさんがカエルの時季を待っていることが書かれていた。カエルをどんな対象物として関心を持たれているのだろうか。私にはカエルにちょっとした笑えぬ記憶がある。 4年ほど前、比良…

沈丁花とジョウビタキ

昨日は小雨交じりの風が吹き荒れ、時にしぶきをあげて窓を叩きつける強風もあった。こんな状況だったから鳥撮りにも出掛けられず閉じこもっていた。昨日と打って変わって今日は暖かくて穏やかな陽射し、長いヤツを持ち出してキジのフィールドへ出掛けたかっ…

冬の湖北が遠くなっている

湖北野鳥センター前の沖合に飛来しているコハクチョウなど冬鳥を撮りに出掛けたかったが、今冬もついに行けずじまいだ。コハクチョウたちは北へ帰ってしまった。それに雪の風景を求めて湖北へは一冬何度も訪れていたが、いつの頃からか出掛けずにいる。 今津…

海が見たい

昨夜は随分遅くまで「王たちの道」ブランド・サンダースン著(早川書房)を読んでいた所為で起き出すのが遅く、枕元のスマホの呼び出し音で目覚める。9時を過ぎるとカミサンが電話してくるのだ。カミサンが元気な頃はお昼近くまで寝ていても無干渉だったが…

田圃道を歩く

風も無く陽射しの暖かい午後だっので田圃道を2時間ほど歩いた。全く人気のない耕作放棄地の間の道、マスクをせずに歩き廻れることがなんとも気持ち良かった。耕作放棄地のヨシ原の中にはかなりの数のスズメがいるようなのだが、枯れたヨシの深みの中、姿を現…

寒晒し

例年今頃の時期になると決まって思い浮かべる場所がある。岐阜県郡上八幡だ。市中を流れる吉田川で行われる冬の風物詩「鯉のぼりの寒晒し」を撮りに行きたいのだ。もう随分以前から思いを募らせているのだが実行できずにいる。一度はお城の近くの宿を予約し…

小さな命の終わり

「小さな命の終わり」と名付けたファイルを持っている。虫撮りや散歩の折などに見つけた虫たちの死を撮ったものだ。今日はこのファイルにジョロウグモの命の終わりを取り込むことになった。玄関先のシロダモの根元で見つけたのだ。 シロダモの葉裏にくっつい…

アオクサカメムシ

新聞を取りに出た折、門扉の近くにカメムシがいるのを見つける。アオクサカメムシだ。越冬にはいっていたヤツが風にでも吹き飛ばされて転げ落ちて来たのだろう。11日の日ににブログを書いて以来、呆け暮らしが続いていた。そんなこともあって鳥撮りにも冬の…

老写真家のこと

一昨日の京都新聞夕刊に「小さく強靭な生を見つめて」というタイトルで、絵本作家の記事が出ていた。”足元に咲く花や、草木に止まる虫たちが繰り広げる驚きに満ちた世界を、丹念な観察とスケッチで描いた科学絵本で知られる甲斐信枝さん(90)”のこれまでの…

ふろふき大根と柚子味噌

今日の夕食の一品は柚子味噌をあしらったふろふき大根にした。スーパーの野菜売り場でまるまるとした源助だいこんを見つけたのだ。あしらうトッピングは庭の柚子を使っての柚子味噌を作る。 源助だいこんで作ったふろふき大根と柚子味噌にはある思い出がある…

喪中はがきと「極北の動物誌」

長い読書歴の中でなにかの拍子に不意に読みたくなる本が数冊ある。書籍のほとんどは一度読み終えると書棚で眠ってしまうか処分されるのだが、今日取り出した「極北の動物誌」ウイリアム・ブルーイット著 岩本正恵訳は何度も何度も取り出しては、その内の何章…

小さな侵入者

老境に入った人は先々のことを思い描くよりも、記憶の深みから過去にあったことを引っ張り出してそれを楽しむという。思うに私自身もいつの頃からか思い出の光景を喰い、それを味わい楽しんでいる。今日もイネ科の植物ノギ(芒)の長い小さな実から小学5年…

柚子味噌づくり

石油ストーブをつける機会が多くなってくると、カミサンは一冬に何度かおでんを作っていた。幾種類もの具材を大きな土鍋に入れ、前日から作っておいた鶏ガラのスープ、時には昆布と鰹節の出汁を注いで、長時間コトコトと煮込んでいた。おでんはカミサン自慢…

柿の木残影

昼下がり、湖岸沿いの集落の中の道を半時ほどぶらぶら歩く。空の高みで舞うトビを見かけただけで、不思議と鳥の姿を見かけずだった。ファインダーを覗いたのはジョウビタキを見た時だけだった。 分厚い雲間から太陽が時折顔を見せるというどんよりとした集落…

思い出せぬことの多かりし

ベランダに出るガラス戸のカーテンにクモがいるのを見つける。ファインダーを覗きこみながらこのクモの名前を思い出そうとするのだが、思い出せないのだ。よく見かけるクモだ。それに寒くなるこの時季まで姿を見せるクモはそんなに多くない。何というクモだ…

残り菊

庭先のヤツデの下に白い小菊が咲いている。挿し芽をしたことも種を蒔いたという覚えも無い一株なのだ。鳥がでも種を運んできてくれたのだろうか。 陽射しは暖かいがガラス戸の向こうは冷たい風が吹いている。残り菊と呼ばれるこの時季の菊を華やかに咲き誇る…

柴栗の実

小さな谷間の向こうの段々畑へ虫撮りに行った帰り道、雑木林の外れの道端で木から落ちたばかりと思われる毬に入ったままの柴栗を見つけ持ち帰った。 柴栗には様々な光景が連なっている。 半世紀以上も前の裏山の雑木林は人の手が入っていたから、下草やクマ…

落ち蝉(ツクツクボウシ)

玄関先の玉砂利の上で落ち蝉を見つける。ツクツクボウシの落ち蝉だ。危うく踏み潰すところだった。夏の終りから初秋にかけてアブラゼミの落ち蝉が庭先や階段に転がっているのはこれまで何度も見てきたが、ツクツクボウシの落ち蝉を見た記憶はない。夏の雑木…

折りたたみ式のキーボード

カミサンの体調が悪く、2月3日に入院する。情報のやり取りをするのに病室から電話もならず、カミサンが「LINE」を使っていることから、孫たちに薦められて今まで使ったことのない「LINE」を使用することにした。情報のやり取りは至極便利なのだが、iphoneの…

黃水仙

比良連山は五合目近くまで雪に覆われている。その雪山が明るい陽射しを受けなんとも綺麗なのだ。カメラを持ち出し琵琶湖大橋を渡って向岸から狙いたいところだが体が思うように動き出してくれないのだ。 小さな庭の片隅で黃水仙が一輪花開いていた。 カミサ…

衝動買い

今日の京都新聞夕刊の「現代のことば」というコラムに「町の本屋」という一文が寄稿されていた。ジュンク堂書店京都店(四条通)が閉店するという、こんなニュースから現在の出版業界を取り巻く厳しい状況や町の本屋さんの事情、「紙媒体」からデジタル化へ…

雑踏の中で

久しぶりに京都へ行く。鄙から出て来た老爺が都の人混みの中をよろよろと歩く。雑木林や棚田、湖岸での虫撮りや鳥撮りはほとんどが独りぽっちの世界だ。そんな場所から雑踏の中に出るとまるで異世界に迷い込んだようで言いようのない圧迫を感じていた。人の…

天人五衰

昨年の秋の初め頃から、何かの弾みで「天人五衰」という語句を思い浮かべることが多くなった。今日も定期検診に行った病院の待合所で旧い知人のSさんを見かけた時、あっ!という思いと同時にこの言葉が頭をよぎった。 小柄な老爺がよたよたという感じの覚束…

大寒の日に

玄関の扉に極細の生糸一本でぶら下がっているアオスジアゲハのサナギの体が随分と膨らんでいる。殻の中では蝶になる準備が進行しているのだろう。 シロダモの葉裏にいるサナギも同様に大きく体を膨らませている。 葉裏のコヤツにレンズを向けながら、今日は…

干し柿とテントウムシ

「ベランダに猿が来てますよ」カミサンの声に階段を駆け上がった。カメラを持ち出した時には野猿は隣家の屋根に移っていてその背中を一瞬見ただけだった。昨年暮れ以来住宅地で猿の姿をよく見かけるという。時には10匹近い集団をも見かけるようだ。そんな事…