野の仏たち(3)

冬籠りから少しでも抜け出したいと思い、夕方の散歩に出る。
寒風に身を晒すのが苦痛になっていたから、20日以上も散歩に出ていないのだ。
散歩の途次、野の仏を見付ける。

野仏に供えられた花、黄菊と紅菊は供えられたばかりなのか、真新しかった。
この花の所為だろう、寒々とした冬枯れの棚田の石垣のそこだけが華やいだ感じだった。

今日はあの阪神大震災の発生した日だ、この花にも慰霊の思いが込められているのかもしれない。

野の仏を見かけると決まって思い出す人がいる。
野の仏をテーマに随分沢山の仏を撮っていた旧い知人のSさんのことだ。
春夏秋冬の風景の中の仏たち、中でも今もって眼に焼き付いているのは、牡丹雪の降る棚田道の仏に弱めのストロボを発して撮ったものだ。
こんな写真が撮りたい、今なを思い続けているのだが撮れずにいる。

Sさんからはいろんな事を教わったし、撮ることへのさまざまなヒントも貰った。
野の仏についても教わることが多かった。
その一つが夕方の散歩の時に見た野仏の有り様だった。
耕地区画の整備や農道整備などの圃場整備の時に、棚田の土手や農道脇に安置されている石仏は、邪魔になるからと棚田の片隅などに移転させられることが多いのが常だが、野の仏の来歴やそれを祀る人の格別な思いから、元居た場所から移さないこともあるという。
そのために農道がいびつに曲がったり、余計なコストが掛かったりしても、野の仏さまのことならば良しとするとのこと。
棚田の石垣を凹ませて作ったこの野仏のいる場所にも、いろんな思いが積み重なっているのだろう。
野の仏を見ると思い出すSさんも故人になってから15年ほどが経つ。