スクラップ

昨日から書斎の大掃除にかかっているがいっこうに捗らない。

この捗らない原因は、幾つかのテーマで切り抜いておいた新聞や雑誌のスクラップの所為だ。
スクラップはそれぞれタグの付いたケースに入れてあるのだが、ほとんどが未整理なのだ。
それに既に興味を失くしている分野のスクラップもあった。
捨てるものと残しておくものとの仕分けにかかったものの、仕分けの作業よりもスクラップを読む方の時間が長くなっていたのだ。

その一つが、詩人宗左近さん「心の原景・縄文の伏流水」というタイトルで書かれた連載記事の一コマだった。

縄文晩期の遮光器土偶を取り上げて、その中に日本人の心の原風景を見出しているのだ。
「インドと中国と朝鮮半島の、つまりは本家の仏教の語る地獄。これは凄絶であって、救いがない。この世で罪を犯した亡者は永遠に責め苦を受け続けなければならない。
ところが、鎌倉以降の民間の仏教の語る地獄は違う。前非を悔いる亡者の前には、救い主があらわれて極楽へ導く。
それが地獄菩薩。
そして、それのこの世に出現した時の名前が、地蔵菩薩。両者はじつは一体なのであると考えられる。そして、この地獄菩薩が、日本の独自なのである」と説き、「トンボメガネに似た大きな丸い目を開けていて、閉じている」縄文晩期の遮光器土偶は「おそらく地獄菩薩のお顔の祖形なのである」とイメージされているのだ。

地蔵菩薩については幾らかの知識は持ってはいたが、地獄菩薩という菩薩については一片の知識もなかった。
かなり長い期間、縄文時代のことや土偶について調べていたが、地獄菩薩という言葉には出会わなかった、この記事が初見だった。
初見の時の驚きから切り抜いたのだろうが、切り取った時には必ず記入する新聞名も年月日もスクラップには記入されていないのだ。
それにそのスクラップには赤鉛筆で二重丸が付されているのだ。
何とも落ち着かないスクラップ、切り取った時、何を感じていたのだろうか。


いろんな種類のスクラップが沢山あるのだ。
これは自分の年縞のようなものかも知れないが、老兵にはもう用事のないものだ。
残しておくべきものでは無いだろう。
整理が終わったら焼却だ。
明日も作業の延長。