金木犀落花

庭先の金木犀が落花を始めた。

金木犀の落花を見ると決まって思い出す光景がある。
まざまざと昨日見た光景のように脳裏に思い浮かぶ光景は、数十年も前のものなのに風化もせず鮮やかなのだ。

その光景を見たのは南海電鉄高野線九度山駅の近くでだった。
農家と思えるお宅の庭先の金木犀は、駅に通じる道に覆いかぶさるように枝を伸ばしている。
この金木犀の大木の下に敷かれた藁筵に白髪の小柄な老婆が座っていた。

昼下がりの爽やかな風と木漏れ日の陽光に誘われたのか、老婆は居眠りをしていた。
手には白い毛糸と編み針を持っている。

背を丸めてこっくりこっくりしている老婆の頭にも肩にも膝にも、黄色い金木犀の花が落ちているのだ。
老婆が座っている筵全体が黄金色になっており、その廻りの道端一面も黄色くなっていた。
老婆は此処にどれ位の時間座っていたのだろうか。
風のそよぎの度に黄金色の小さな花びらが舞い落ちてくる。
老婆の体に降り落ちている花びらは結構多いのだ。

ひと声かけて老婆の隣に座らせてもらい、金木犀の仄かな香りや舞い落ちてくる花びらを全身に受けながら居眠りできたら幸せだろうな、そんな思いがよぎっていた。

金木犀の下の老婆、その向こうに見える古びた駅舎、古い枕木を使った柵、電車が来るとチンチンチンと鳴りながら赤く点滅する警報機、等などが思い出されるのだ。

金木犀を見る度に思い出しているこの光景、この光景は数十年という時間に揉まれているのだから、数十年も前のものなのに風化もせず鮮やかだと考えるのはまさに錯覚だろう。
思うに実際に見たものとは相当に異なっているに違いない。
思い出す光景、それは自らが作り上げる物語の中の光景と言う方が正解だろう。
老いの時間が経過するに伴い、思い出す光景はますます鮮やかに創られていくようだ。

庭の金木犀の下に新聞紙を広げておいて金木犀の落花を集めてみよう。
乾燥させてお茶に浮かべたら面白そうだ。