無人の集落

今朝4時近くまで「文明の崩壊」(ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一訳)を読んでいた。
そんな所為で起きだしたのが午後12時、昼夜逆転の生活を改めようとしているのだが、身に付けてしまった習慣は簡単には治りそうにない。
早起きして虫撮りに出掛けられるような季節になる迄、昼夜逆転の生活が続きそうで心配だ。

「文明の崩壊」を読みながら日本の限界集落のことを思い出していた。
中米のマヤ、北米のアナサジ、東ポリネシアイースター島などの社会が崩壊していく姿を一つの風景としてイメージすることは出来ないが、身近に見た限界集落が時とともに無人の集落になり崩れ落ちていく様子を思い出すことで、崩壊の一端をイメージしていた。

7年ほど前まで虫撮り以外に、無人の集落や放棄された棚田の崩れかけた農事小屋を訪ね歩いていたことがある。
無人の集落が持つ寂寥感、人が暮らしていた頃の息吹き、そんな光景を撮りたかったのだ。


訪ね歩いていた屏風や後谷の集落、杉、保月、五僧、霊仙(多賀町)、男鬼(彦根市)の集落などは現在どんな様子なのだろうか。
七年の歳月は形あるものを酷く傷めつけているに違いない、風雨は容赦しないのだから。
無人の集落は荒れるにまかされ崩れ落ちているのだろう。
集落のことやそこで暮らした人たちのことを思い出す人は、いつまで存在するのだろうか。

もう一度訪ねてみたいが、車がやっと通れる程の山道だった、老兵の運転ではもう無理だろう。