老いのかたち(7)

冬用のタイヤ履き換えの為に近くのガソリンスタンドへ行く。
先客が4人ほどいてかなりの待ち時間のようだったが頼むことにした。
自分でタイヤ交換をしなくなって5年近く経つている。
この作業が面倒臭くなっているというよりも、タイヤの重さに難渋しているのだ。
履き換え作業もやってやれないことはないだろうが、タイヤの積み降ろしだけでもふうふう言っているのだ、自分の老いを知らされる。

肉体が日々老いてゆくことは自然の摂理として受け入れられるが、心や感受性の老いだけはどうしても我慢ならないのだ。
心や感受性が老いさらばえてしまへば、自己の尊厳性が喪失してしまうのではないか、そんな恐怖感が付き纏っている。肉体よりも心や感受性の方が先に老いてゆくことへの戦慄だ。

老いのかたち、そこには種々様々なかたちがあるだろう。
きりりとした老いでありたいものだ。
呆けた日々だけは送りたくない。

きりりとした老い、このことを考えるようになって決まって思い出す人がいる。
学生の頃知り合ったKIRAIさんと呼ばれていた書道塾の老先生だ。
もう80歳はとっくに過ぎておられたが、子供たちに書を教えるのが楽しくてしょうがないというふうに、いつ見ても教室の中を歩き回っておられた。
私は週2回老先生の孫娘の家庭教師でお伺いしていたのだが、時折夕飯をご馳走になることがあり、その席で老先生からいろんな質問をされた。
「60年安保」の時代だったから学生運動についての鋭い問いかけや意見があった。
ノンポリを決め込んでいた私には答え切れない質問もしばしばあった。
書道の話や漢詩の話、時には映画の話もあり、80歳過ぎとは思えない感性の瑞々しさに内心舌を巻いていた。
今から思えば素晴らしい老いのかたちだったのだ。
そんな老先生から形見分けのように貰ったものがある。
水滴だ。
書棚から取り出してみる。

この水滴や印池を使わなくなったのは何時の頃か思い出せないほどの時間が経っている。
毛筆で年賀状を書かなくなってからも久しいのだ。

水滴を眺めながら老いのかたちを考えている。