篠突く雨

折にふれて手にする本に「雨の名前」(小学館)がある。
「風の名前」という本との二部作だ。
どちらも趣きのある写真が豊富に挿入されていて、名前を調べるだけでなく、気分転換の時などに取り出しては眺めている。

今朝、地下鉄くいな橋駅の階段を上がった時、叩きつけるような雨脚の凄さに驚いた。
折りたたみの傘は持っていたがそんな傘では役に立ちそうにない豪雨なのだ。
JR京都駅で降りた時は雨など降っていなかったのに僅かな時間差でこんなに違うのだろうか。
激しい雨の中に踏み出すのを躊躇い、講座に出席するのをやめようかとさえ思っていた。
無量寿経・下巻」講読の前期終講の日だ、休むわけにはいくまいと自分に命じ、小降りになるのを待っていたが、小降りになる気配もない、ずぶ濡れを覚悟で踏み出す。

3・4年前だったら小走りで雨の中を歩いただろうが、老兵にはそんな意識はなくなっていた。
濡れれば濡れたでいいじゃないか、そんな思いだった。

雨の中をゆっくり歩きながら、こんな雨はなんと呼ぶのだろうかと考えていた。
「篠突く雨」「土砂降り」位しか思い出せない。
帰ってから調べてみるに、「ざんざ降り」「洪雨」「甚雨」「深雨」「滝落し」「鉄砲雨」等があり、岩手県平泉地方では豪雨のことを「ごず降り」と言うとあった。

最近では「経験したことがないほどの雨」と表現されることがある。「篠突く雨」「滝落し」「鉄砲雨」などのような情感のある言葉使いがされなくなっているのも、情報伝達という意味でやむを得ないのだろうか。

豪雨に寄る大災害などを見聞きすると、雨の持つ情感など言ってはいられないことは承知しているが、いい言葉は後々まで使い続けて欲しいものだ。

深草キャンパスに着いた時には「滝落し」の雨は小降りになっていた。
本当に滝の中を歩いたように傘からはみ出していた肩や膝から下はずぶ濡れだったが、気分的にはこの雨の中を歩いたことが妙に楽しかった。

啓蟄に篠突く雨の降り注ぎ     虚子