成る木打ち

玄関先のアオキの木の実が赤く熟れ始めた。
例年なら沢山の実をつけるのに今年は非常に少ないのだ。

冬になるとこの実を食べにヒヨドリムクドリがやって来る。
お蔭で玄関先や階段は彼らの落し物がこびり付き掃除をするのが大変なのだが、今年は飛来の回数も限られるからこの手間が軽減されそうだ。

実のなるのが少ないのはアオキだけではなく、庭のゆずの木も僅かな実しかつけていない。
2年続きの不作なのだ。本来なら今年は当たり年なんだが、昨年の剪定の仕方に手落ちがあったのかもしれない。それともこのゆずの木も老木の域に入ったのだろうか。

当たり年にはびっくりするほどの実をつけ、ご近所に配ったり、ゆず風呂が何度も楽しめたのに、今年はこの楽しみも僅かばかりになりそうだ。
そんな感傷じみた気分でいた時不意に奥永源寺のある集落で見た光景を思い出した。

もう5・6年も前になるが、奥永源寺へ晩秋の写真を撮りに行ったことがある。
車を止めている場所へ帰ろうと集落の中を歩いていた時、おばあさんと小さな女の子が何かブツブツ言いながら庭先の柿の木を棒で叩いているのを見たのだ。
面白い光景だったので一枚写真を撮らせて欲しいとお願いしたのだが、老婆は手を振って拒否の意を示し申し訳ないねという風に頭を下げた。そしてお詫びの印みたいに大きな柿を2個私に手渡してくれた。
小さな女の子は相変わらず棒切れで柿の木を叩きながら小声でブツブツ言っている。
よく聞いてみるとそれは「なるか、ならんか、ならんとぶっきるぞ」と聞こえる。
私はあっと思った。私の祖母もこんな歌を唄いながら樹を叩いていたことがあった。

それは「成木打ち」(成木責め)の歌(呪文)だったのだ。
日本では昔から小正月の行事として行われていたようだし、中国でも西欧(ブルガリア、シシリー)でも古代から行われている豊穣を祈る行事だったという。
この成木打ちの習俗の背後にどんな意味合いが隠されているのか、その時の私には詳らかではなかったが、小さな女の子のその行為に不思議な感動を覚えていた。

庭の柚子の木にもこの成木打ちをやってみよう。