故郷が遠くなる

例年7月の終わり頃にお盆前の墓地の掃除に帰省しているが、年々故郷が遠くなっている。
たまにしか帰省しない所為か、眼にする山河や田園風景の年々の変化に驚くばかりなのだ。

記憶の中にある少年時代の風景を探しても一片のカケラもない、恐ろしいほどの変わり方なのだ。
僅かに山の稜線に昔の山の形を見出すことが出来る程度であり、それでも山によつては砕石による爆破で私の知っている山容を破壊されている。

全ての風景が様変わりしているのだ。
見慣れた家並みも道もない、夏になると一日中水に浸かっていた清流の川もない。
これが私の故郷なんだろうか。

故郷とは一体どんなふうに定義付けるのだろうか、そんな事を考えている。

今は生まれ育った地に、年老いた母と一番下の妹が暮らしており、ご先祖の墓がある、このことが故郷と私を結びつけているが、もし母がいなくなったら、故郷はもっと遠くなるんだろうな。

故郷とは何なんだろうか。
生まれ育ち青年期まで暮らした故郷よりも、今この琵琶湖畔の暮らしのほうがはるかに長い。
産土の風景(故郷)は数枚の写真と記憶の中だけにしか存在しない故に、琵琶湖畔の地を故郷と呼ぶべきなんだろうか。

帰途の車の中で遠くなる故郷の事を考えていた。
カミサンは疲れたのだろう横で静かに眠っている。

疲れて帰った私を出迎えてくれたものがあった。
玄関先の南天の木とアオキの下の百合の葉にしがみついているアブラゼミの空蝉だ。
留守中に羽化したようだ。


アブラゼミの羽化を撮るには絶好のポジションだったのに。
来年に期待しよう。