5月5日の講演会以来、土偶のことが気になっている。
僅か4cm足らずの土偶だが、その豊満な胸と腰部にロマンを感じているのだ。
1万3年前(縄文時代草創期)の縄文人が、琵琶湖の辺りの集落でこれを造っている姿が目に浮かぶ。

そんなロマンもさる事ながら、講師 瀬口真司氏(財団法人滋賀県文化財保護協会)が、この土偶の中に見た「神観念」のことが気になっているのだ。

頭も手足もない小さな小さな土偶の首の部分に開けられた小さな穴。
この小さな穴を氏は「空ろ」と定義し、空ろは神の宿りの場所であることを、幾つかの「土偶を描いた土器」、巨石の磐座、信仰の対象になっている洞穴、縄文時代全期を通じて造り続けられる穴の開いた土偶など、幾つもの例証を挙げて説明された。

面白い仮説だと思う。
「宿り・宿られる土偶ー「空ろ」に神を見る日本人の源流」
この「空ろ」を神が宿る場所であり憑依する場所であると定義付けることに同意するも、この神はどんな神なのだろうかと思わずにはいられない。
神は「神」でなく「カミ」であろうが、狩猟採集の縄文時代と農耕を定着させた弥生時代では、その「カミ」の顔貌も変わっているだろうし、仏教が渡来してからの「カミ」の顔貌もあるはずだ。
この小さな小さな土偶に宿る神はどんな神なのか。
宿っているのかそれとも閉じ込められているのか。
虫撮りの間に「カミ」のことを少しづつ考えてみよう。