記号を喰う

新聞や雑誌などで面白い記事やコラムを見つけると切り取り、丹念にスクラップブックに貼り付けていたのものだが、最近はこんな作業をすることが面倒くさくなっている。
作業が億劫なことばかりではなく、読み返してみたいと思う記事やコラムを余り見かけなくなっているからだ。
見かけなくなったというよりも、一過性の情報だけで生活にさしたる不便も感じない日々が連続しているから、眼に付かないのだろう。
15日の日以来そんな呆けた日が続いている。
冷たく暗い雨が終日続いているだけに余計に呆けているのだ。

雨の日、虫撮りもならずだったから、整理もせずに切り取ったまま紙袋に突っ込んでおいた今年半年分のスクラップを取り出してみた。

その中に鷲田清一(元阪大総長・名誉教授)さんが京都新聞のコラム「天眼」に寄稿していた「味わう人」を見つけだす。

老舗のホテルや大手百貨店などで発覚した食材偽装を取り上げ、「ひとはそこで食材の偽装に憤った。偽の表示を、消費者の信頼を裏切るものとして受け止めた。当然である。が、ふと冷静になったとき、偽りの表示に踊らされ、じぶんの舌で味わい分けられなかったことに、とまどいに似た気持ちをも抱いたことだろう。本物と偽物の違いがどこにあるのか、その違いはひょっとしたらものすごく観念的なもの、記号だけのものではなかったか、と。」論じ、「わたしたちは食においてみずから吟味するという能力をなかば失い、世に流通している記号で判断するようになった。その事実をこのたびの食材偽装の発覚は思い知らせた」と厳しく指摘されている。

何度も読み返していた。
ものの良し悪しをじぶんの舌で吟味出来るようになりたいものだ。
ホモ・サピエンス」(賢い人、知恵のある人)のもともとの意味が「味わう人」だったということを知ったのもこの記事からだ。

*「記号」という切り口で京都を論じたコラムを同じ京都新聞の「現代のことば」で読んだ。
作家高村薫さんが寄稿された「観光地の京都」に「観光地としての京都は、とにもかくにも「古都京都」という強固な記号の所産・・・中略・・・。昨今の有名ホテルや老舗百貨店の食材偽装表示問題も、ブランド名という記号をめぐる騒動である。つまり私たちは、対象そのものよりも記号を鑑賞し、記号を評価し、記号を楽しむのだが、「京都」という記号はけっして飽きられてしまうこともなく・・・・・」と論じられていた。

記号か自分の舌か。