「読む」技術

「仏教の中央アジア的変容」(山田明爾龍大名誉教授)の講座のある日だ、講座の始まるまで龍谷の森で虫探しをと考え、虫撮り用の重装備を用意して出掛ける。
意気込んで出掛けたものの現地に着く頃には雨の来る気配だ、戦意喪失してしまいキャンパスに引き返すことにする。
「オマエさんの虫探しの意気込みも雨の気配だけで喪失ですか」自嘲していた。
講座開始までの時間潰しにキャンパスの中の本屋さんに入る。

 ”「読む」技術”・石黒圭(光文社新書)を買い求めた。

読む技術って何なの、そんなちょっとした違和感を覚えたからだ。

これまで、書くことについての方法論や文章作法、話すことについての話法やコミュニケーション論などについては、いろんな技術論があることは承知していたが、読むことに「読む」技術があるなどとは思ってもいなかった。

読むことに何らかの技術論めいたものを考えたとすれば、如何に速く読むか(速読)、自分に必要な箇所をどれだけ的確に見つけ出せるか、集中力を如何に持続させるか、これくらいだった。

 ”「読む」技術”を如何に読むかだ。


「仏教の中央アジア的変容」の講座も今日で終講だ。
次回からは「中央アジア仏教の特性ー佛・菩薩の変容」が5回の予定で組まれている。
中央アジア・西域の歴史などについても沢山のメモがあるのだ、整理しなおしておかねばなるまい。楽しみがまた一つ増えた。