老いのかたち

今日は2ヶ月ぶりの循環器内科での定期検診日。
受付の始まるのが8時半だが、もう既に大勢の人がいた。
診察時間はたかだか5・6分に対して待ち時間は長い時などでは2時間以上はザラだ。
何と言ってもこの待ち時間がとても苦痛なのだ。
これをやり過ごすためいつも本を持参するが、持って出たはずの本が手許にない。
仕方なく眼をつむって待合所の椅子に座っていた。

少しざわついてはいるが静かな待合所に大きな声がする。
「〇〇さん、どうしてここにいるんですか、Y整形かい」
「Y整形からこちらに移ってきたの、検査をやり直すためにね」
小柄な白髪の感じのいい老人と孫と思える女性の会話だ。

ものの5分も経たないうちに老人は同じ問を発する、若い女性は穏やかな声でゆっくり同じ答えを返す。
これが何度も何度も繰り返されるのだ、最初のうちは二人の周囲を憚らぬような声高な会話が耳障りだったが、認知症らしい祖父と孫娘の短い会話に、いつしか様々な「老い」の事を考えていた。

避けて通れぬ老いをどう老いていくか、いくら考えても我が手ではどうしようもないのが老いの本性とは思うが、不様なかたちの老い方だけはしたくないものだ。

昨日の虫撮りの時低い棚田の土手を飛び降りられず、遠回りして下の田圃に出なければならないほど身体能力は落ちているが、ボケだけはご免だ。
機能は形を形成すると言われるが、ふやけた老いのかたちだけはとりたくない。
今朝PUKUさんとの散歩の折に見たスズメガの仲間のように行き着く所まで歩こう。