記憶の形

久しぶりにPUKUさんとの早朝の散歩に出る。
朝露に濡れた草むらに入ると素足に何とも言えぬ心地良さを感じる。
夏の初め無慙にも刈り倒されたオニユリの群落の跡地は今、露草が賑やかに育っている。
この露草の茂みの中はまさにキリギリスの王国だ。

サトクダマキモドキ(ツユムシ科)も見た。

カミキリも見た。

眼科検診のことを思い出して、朝の散歩を早めに切り上げ近くのY眼科へ視力検査に行く。
受診者が多いのを承知しているので、長い待ち時間をやり過ごす為に文庫本を持参する。
診察開始の45分前に受付を済ませたが既に待合所は大勢の人だ。
待合所の隅に何とか座れる場所を見つけ、持参の「ノーザンライツ」(星野道夫新潮文庫)を読み始めるが、数ページも読まないうちにある事が気になり始める。

数日前に来たある人のメールを見た時、その書き方(文章が持つ独特の雰囲気)から、随分昔のことを思い出した。
その事を反芻するかのようにふたたび思い出しているのだ。

記憶の中のものは本来は相当に苦いもののはずだが、思い出しているものは不思議なくらい苦味を伴っていない。
記憶の坩堝の中でいろんなものと混じり合い、ものの前後関係も入れ替わり発酵を続けて苦味を失ってしまっているのだ。
思い出す光景や物の形は鮮明だが、それが当時のものではないように思う。
苦味も形も感触も長い年月で変質しているようなのだ。
時の流れがその事を変質させるというよりも、人は自分の都合のいいように何処かの時点で記憶の底に遺っているものを変えてしまうものだと言われる。

人の記憶なんて事実そのままをいつまでも正確には保持しない。
記憶の中で事象は、発酵し変形し自分の都合のいいように姿形を変えるのだ。
自分史なんて3分の理と7分の装飾だと言った人がいたが、過去の記憶なんて所詮そんなものかもしれない。知らず知らずのうちに自分自身さえ欺いているのだと喝破した人もいる。

もしも人の記憶が、水月湖福井県)の湖底から採取されたあの年縞(バーコードのような縞模様のある堆積物、花粉、プランクトン、珪藻、粘土鉱物などで形成されるその縞模様を解析することで何万年もの間の地球の気候変動が読み取れると言われている。水月湖では湖底の土が75メートルの深さまで取り出された)のように動かしがたい事実のみを突き付けるとすれば、人はその苦しさに耐えられないのではないだろうか。

自分の名前を呼ばれるまで呆けたように独りの世界にいた。
考え事をしていて何度も名前を呼ばれたようだが気付かずにいたようだ、慌てて診察室へ。
左目の乱視が進んでおり眼鏡が合っていないようだ。
それと疲れ目の処方にビタコバール点眼液を貰って帰る。

記憶の中のものに繋がる形あるものはもう何処にも無い。
むしろ無い方がいいのかもしれない。
明日は虫撮りに行くことにしよう。