組写真について・2

”「無量寿経」を読む”の講座を2回もサボってしまったから、半月ぶりの京都だ。
講座の帰りはいつものコース、3ヶ所の写真ギャラリーをまわる。
ぎゃらりい西利での写真展ではこれまでに経験したことのない展示の仕方をしていた。
15人の内の一人を除いて全員が組写真なのだ。
これは驚きだった。

「組写真とは」と定義付けるつもりは毛頭ないが、なぜ3枚組なのと思われるものが多かった。
それに私も写真の題名を付ける時はいつも四苦八苦するが、組写真となると写真の意図を適確に示す為に相当苦労したんだろうなと思わせるものがり、またいやにあっさりだなと感じるものがあった。

小説でも詩でもエッセイでもそうだが、読みこむとか深読みすると言われることがある。
読み手の感性によって字面に書かれていることよりももっと深い所に想いを馳せるのだ。
或いは作者の意図とは違う世界を読者が勝手に作り上げる、そんなこともあるだろう。
作品として上梓されてしまえば、その作品は作者の手を離れ読者の物になってしまう。

写真展の写真も同じことが言えないだろうか。
ここでもなぜ組写真なのと思うものと組写真であるが故にいいなと思わせるものがあった。
「鎮魂」・3枚組、「洞窟にて」・3枚組は私好みだった。
「洞窟にて」はタイトルがもう一つだなと思いながらしばらく見ていたし、「鎮魂」は風化してゆく構築物がどこか今回の大津波の跡を想像させ、まさに鎮魂を感じた。
顧問の先生の「忘却」4枚組は、小さな神社の荒れ果ててゆく様子を切り撮っていたが、あまりにもリアルで、私は気持ちが悪かった。

後の2ヵ所のギャラリーは足早に見て回った。
最近感動することが少なくなったように思うことが多々ある。
肉体の老化以上に感性の劣化が早まっているのだろうか。