「聴くこと」と「読むこと」

昨日の講演「リグヴェーダを読む」・講師後藤敏文東北大名誉教授の話は、とても難解で話についていけないでいたが、講演会の終わりに出口で頂いた資料(後藤先生が月刊言語に6回連載で寄稿された ”インド学へのいざない”をコピーしたもの)は、内容は相当に難しいが読み込むのに難儀することはない文章だった。

午前中これを読むことに集中していた。
とても面白い内容だ。

読み進むにつれ、聴くことよりも読むという行為のほうが自分の性にあっているのだ、と思った。
聴くことは自分の持っている知識を総動員して、しかも瞬発的に話者の言葉を理解することを要求されるが、読むことは解らなければ何度でも読み返す、あるいはそのページを伏せて調べ物に取り掛かれる、そんなスローな行為が許されるのだ。
ボケはじめた老兵にはこのスローな理解の仕方しか残されていないように思える。

半月ほど前、「コラム道」(小田嶋隆著、ミシマ社)を読んだ。
この時、書くということの大変さを思い知らされていたが、今は話す事のほうが書くこと以上に難しいのだと感じている。
講演の内容は事前にきちっと準備するのは当然のことだから、これはある意味書くことだ。
しかし講演は書いたことの棒読みではない筈だ。話には間があり、声の大小抑揚があり、聞き手の反応如何では用意したことの部分的省略や時には横道に反れることも必要だろう。
臨機応変は話者の知識の豊富さの如何だろう。
これがあるテーマに基づいての座談だったりすると、講演する時以上の知識と待ったなしの瞬発力が要求される。

話すことの難しさと聴くことの難しさは世界が違うとは言え同義なのだろう。

庭に残っているタカサゴユリの最後の一輪。

アミメアリとミツバチが来ていた。