ワガママな味覚

今日は光華セミナーの第4回目「児童文化にみるいのち」の講座のある日だ。
講座は2時からだが、昨日一日呆けていたのでその分取り返すつもりで早めに家を出る。
ジュンク堂書店ヨドバシカメラに寄るつもりだ。

それにしても昨日一日のボケーッとした呆けぶりには我ながらあきれている。
5時起きして琵琶湖大橋2橋間の昇陽を撮りに行く為にケイタイに目覚ましをセットしたのだが、そのケイタイを書斎に置いたままにして寝てしまったのだ。
目覚めたのが6時半、快晴の空に真っ赤な素晴らしい太陽が出ている。

もう2橋間昇陽を撮るには間に合うはずがなく、自分の馬鹿さ加減に腹を立ている。
これが呆けた一日の始まり、思考停止状態で日暮し半睡していた。

必要な本は殆どがアマゾンから入手していたが、本屋さんに潜り込むということも大切なことだと思った。目的が明確ならネットの利用は便利だが、思いがけない本にぶつかるのは矢張り本屋さんの書棚を見て歩く時だ。それに手にとって立ち読みする楽しさがある。
本屋さんには迷惑かもしれないが今日はその楽しみを満喫した。ジュンク堂書店に長居してしまった。

たまたまアリの事を調べるため「蟻の自然誌」を読んでいた所為もあって、書棚で見つけた
「働かないアリに意義がある」長谷川英祐(進化生物学者)著メディアファクトリー を買ってしまう。

お昼はハゲ天で天ぷらにする。
ハゲ天には時々寄るが今日の天ぷらはいつもと違う気がする。
二種類の天つゆが置いてあったがいずれもどうも不味いのだ。
天つゆの仕様が変わったのか私の舌が鈍化したのか、天つゆをやめて塩で食すがこの方が美味いと思った。
味覚もますますワガママになってゆくようだ。不味いと思いはじめると腹立たしくなってくるのだ。

この不味いと思う腹立たしさはセミナーの時にも感じるようになっている。
不味いと思うと居眠りしてしまうのだ。
自分の口に合わないからと不機嫌になる自分を見ていて、「お前さんも歳をとって堪え性が無くなったな」と感じる。

今日の講座「児童文化にみるいのち」村瀬学同志社女子大学教授)はいろんな絵本や宮崎駿のアニメを素材に、ああ、そんな読み方・分析の仕方もあるのかと思わせる面白い講義だった。
「食べるいのち 食べられるいのち」という副題だった。
「供犠(動物を屠殺したり供物を破壊したりして神霊に捧げる世界各地に広く見られる儀礼行為)とは連鎖の中の命を見つめる古代からの儀式であった」という指摘には共感した。
またその一つの例示としてアイヌイヨマンテを挙げられていることにも違和感はなかった。
しかし、縄文人はいざ知らず稲作農耕民の弥生人以来日本人に動物を屠殺して神にに供するという儀式はあったのだろうか、そんな疑問が湧いた。不味いという感じがしたのだ。
アイヌではなく弥生人以来の人々・稲作農耕民の「いのち」観を示す例示が欲しかったのだ。
肉食の神とその儀式、そんな供犠は私の知る限りでは諏訪地方に僅かに存在するだけだ。
こんな違和感もワガママな味覚の所為だろうか。
解の出ない「いのち」の問い、しばらく続けてみよう。