老いのかたち(7)

仲間たちとの写真展開催が目の前に迫っているのに、作品の作り込みやプリントに取り掛かれないでいるのだ。
明日はやろう明日はやろうと思いながら一日延ばしにして一ヶ月以上が過ぎている。
意識を集中するとか少し長い間根を詰める作業をするのが、何処か面倒くさくなっているのだ。
これも老いの所為だろう。

「忍び寄る老い」「老いが静かに忍び寄る」などと老いの有様を表現したりするが、それは老域に入り始めた者への言辞だ。
とっくの昔に老域に足を踏み入れた者には「荒々しい音を立ててやって来る」そんな言葉が似つかわしいと思う。
そしてその荒々しい足音もリズミカルなものではなく、乱調気味で時に突然高くなったりする。
それを契機に一挙に老いが進むような感じだ。
今日もそんな感じになっていた。

老残・・体も老い心も老い、何かをしようとする意識も老い、残余の歳月を如何せん。
こんなことを考えていた時、漢の武帝の「秋風の辞」の一節(と言っても秋風の辞のこの部分しか知らない、詩の最後の一節だったと思う)「少壮幾時ぞ 老いをいかんせん」を思い出していた。老残の身からすれば何と贅沢な悩みだと思う。

明日は何が何でもプリントアウトまでやってしまおう。

今日の虫撮り