落蝉

涼しい時間帯の虫撮りと思いながら7月の半ば以来いつもぐずぐずしていて出掛けられずにいる。
今朝も五時過ぎの目覚めだからそのまま出掛ければいいのに出掛けられずだった。
そんな朝の時間つぶしもあり、いつも以上に丹念に新聞を読む。

京都新聞の文芸欄「京都文芸」の俳句の欄で妙に引っかかる入選の一句を眼にしたのだ。

「落蝉の鳴き尽したる軽さかな」 中京区 伊藤孔二さんの作品だ。
選者は豊田都峰先生、選評に「命を直視しているが、「鳴き尽したる」と言い切った点を評価したい」とある。
選評の指摘している意味合いがうまく理解できないでいるが、確かにいい句だと思う。
何度も何度も口ずさんでいた。
何度も口ずさみながら妙に引っかかるものを思い出そうとしているのだ。

思い出す切っ掛けにと落蝉と関係のありそうなファイルに目星をつけ探した。
「小さな命の終わり」と名付けてあるファイルの中に、その引っかかるものがあった。

上の写真のメモ欄に書き込まれている「鳴き尽したる落蝉の軽さかな」という句がそれだ。
この句を何処で眼にしたのか定かではないが、句の情感に惹かれて書き込んで置いたのだろう。
句を頼りにWebで調べてみる。
そして以下の事を見つけた。
「鳴き尽したる落蝉の軽さかな」作者 加藤季代  掲載誌 万象 掲載年月 2008・12

京都新聞俳壇の句は盗作・剽窃と言われるものだろうか。
一つの情景や心象風景を描き出すのに、僅か17文字だ。
長文ならいざ知らずこの文字数故に似たような句が創られることもあると思う。
しかし先に発表されたものがあるとすれば、字句の配置が違え世間では盗作と言うのだろう。