老いのかたち(4)

雨が上がり薄日が射し始めたのを幸いに眼デジを持って散歩に出る。
目的は川向こうの農家の垣根に大きな蝋梅があったことを思い出したのだ。
訪ねて行ったが、その蝋梅の花の盛りはとっくに過ぎておりレンズを向ける気にはなれなかった。

川沿いの農道を歩いてみたが冬枯れの光景があるだけで、春は未だ遠い感じだった。
川の両側の農地も放棄されて年月が経過しており、カヤや笹が侵食してきている。
こんな冬枯れの風景は一番苦手な風景だ。
一つだけ救いがあったのは目の前の川の中をカワセミらしきものが飛び去ったのを見たことだ。
過去にも何度かカワセミの飛ぶのを見たことがある。
鳥の写真など撮ったことはないが一度挑戦してみる価値はありそうだ、改めてカワセミの止まりそうな木を小さな川沿いに探してみよう、そんな事をいろいろ考えながら帰途についた。

その川から自宅までは住宅地の中の急坂を歩かなければならない、何度も何度も休憩が必要だ。
老いを感じさせられる。

何度目かの休憩の時、Yさんの家の前にケアハウスの車が停まっているのを眼にして驚いた。
Yさんが介護の人に手を取られ車に乗り込もうとしているのだ。
昨年の秋にYさんが庭先に一人佇んでいる姿を見た時も往時の姿は無かったが、それに較べて何という変りようだろうか。
ゴルフをご一緒した時の颯爽とした姿を承知しているだけに、驚きと寂しさが吹き上がってきた。
車に乗り込む前にYさんが振り返ったので、急いで帽子とマスクを取り頭を下げたが、Yさんはそのまま車に乗り込んでいった。
以前お会いした時、物忘れが始まっているのですよ、顔は覚えているのに名前が思い出せないのです、そんな事をおっしゃっていた事があった。
あの時から容赦無い時の移ろいがあるのだ。

湖北へ出掛けよう、カワセミを探そう、RAW現像したものが気に喰わない、こんなことを考えていられる時間はあとどの位残されているのだろうか。
老いるのは定めだから仕方がないが、記憶力や理解力がガタ落ちしているのにはホトホト難儀している。「動的平衡・2」を読みながら、「動的平衡」とは、「系」とは、「パレートの法則」とは等とその意味を記憶しきれずに何度もノートを読み直しているのだ。何度もだ。情けなくなる。
これも「老いのかたち」だろう。