空蝉とナミアゲハ

昨夏の名残の空蝉を小さな祠の軒裏で見つける。
二年ほど前まで、月二回のヨーガ教室に出かける時の裏山道にある祠だ。
蝉の抜け殻は風雨から守られていた所為か、痛みの少ない個体だった。

きれいな空蝉に、不思議な物哀しさを感じる。
きれいな姿で残っているよりも、風に吹き飛ばされて粉々になって消えてしまう方がいい。
自分はこのように何かにしがみついている空蝉みたいにはなりたくない。

散歩の後、小さな庭の草むしりをしていて、ユズの木にナミアゲハが産卵に来るのを見る。
飛び去らないことを祈りながら、急いでカメラを持ち出す。
昨年もこのゆずの木に沢山のアゲハの幼虫を見たが、終齢幼虫になるまでにほとんどのものが
鳥に食べられてしまって、サナギになったのはほんのごく僅かだけだった。
其の中、蝶になれたのはどれくらいだろうか。

飛翔写真を撮るがMFではなかなかピントが来ない。
老眼には飛翔体はもう無理なんだろかと、悲しくなる。
また、朝の空蝉を思い出しているのだ。