外出から帰った時、玄関先の階段でアブラゼミが落ちているのを見る。
階段の上に枝を伸ばしている金木犀の木から落ちたようだ。
落ち蝉になってまだ間がないのだろう、骸は乾ききってはいなかった。
レンズを至近距離まで近づけていて、ふと、いのちの一片が未だセミに残っているように感じ、それを確かめようとそっと指先で触れてみた。
「小さな命のおわり」と名付けたファイルを持っている。
虫たちの死(チョウ、カマキリ、トンボ、セミ、ハチ・・etc)を撮りこんでいるのだ。
それらはいずれも干乾びた姿を撮ったもの。そこにいのちの断片を感じることはなかったが、今回は乾ききっていない骸から、いのちのことを考えさせられた・・・・・・諸行無常と。
落ち蝉はメスのアブラゼミ。
今朝も庭の金木犀の木ではアブラゼミが鳴いていた。
鳴き具合からセミは一匹だったが耳をつんざくほどのけたたましい鳴き声だった。
メスは鳴くことがないから金木犀の木には2匹のセミがいたのだろう。
落ち蝉の鳴きつくしたる軽さかな
この句の作者名は思い出せないが、落ち蝉を眼にすると決まって思いだす句なのだ。
それと同時に、オマエさん、鳴きつくしたると言えるほどの日暮しでしたか、そんな言葉が被さってくるのだ。