成る木打ち(2)

15日のブログに記した「成る木打ち」(成木責め)の事が何かを嚥下しそこなったように引っかかっていたが、今日の夕方になってやっとその原因がわかった。

もう10数年も前だが、フレイザーの「金枝篇」(岩波文庫・全5巻)を読んだことがある。

その中に日本のこの「成る木打ち」と同じ行為が描かれていた。
このことを思い出したことは苦い思い出しなのだ。
金枝篇を読むのに途中で挫折しているからなのだ。金枝篇のように途中放棄してしまった本が何冊もあり、いつかは読み通そうと自分に言い聞かせながらそれが果たせないでいる。
そんな挫折の苦味が気持ちに引っかかっていたのだ。

いつかは読もう、いつかは読もう、そう思いながら今になってしまっている。
こんな状態を読書に限らず日常生活のあちこちで起こしているのだ。
ケリをつけてしまなければならない事を幾つも抱えていながら一日延ばしに延ばしている。
残り時間はもう多くはないと分かっていながら行動に移しきらないでいる。
成木責めのあの呪文を唱えながら自分に成る木打ちをやらねばなるまい。
呆けた日が連続しないためにも。