見る事、見た事

厳しい残暑が続いている。
昨日の京都新聞”ソフイア”の欄の記事は、感受性が鈍くなっている頭にガツンと一発喰らったような衝撃のある内容だった。

それは粟野菊雄(あわの診療所長)さんの「支援は日常生活の中に」というタイトルでの寄稿文だ。
”大津波でほとんど土台だけとなった陸前高田の街に命の気配は無かった”という書き出しに始まる一文は、今度の大震災をTVや新聞の報道写真を通じてしか見ていない私に、見ることとは何かと云うことを突きつけた。

実際に”命の気配のない街”を眼にした時、自分は目を逸らさずに瓦礫の現実に向き合えるだだろうか。
TVの中の画像だからその瓦礫の道を歩けるが、現実の道ではきっと立ちすくむだろう。

ともすれば日常の出来事に眼をつぶったり逃げ出そうとすることが多くなっている今の私には
粟野菊雄さんのこの一文はこれから先何度も読み返す必要がある。