思い出せないことの多かりき

素晴らしい陽射しに誘い出されて田んぼ道を歩く。最古参の耕作放棄地のヤナギの花穂が少し開き始めている。春本番だ。近くの木の枝先にいる小鳥を見つけ1ショット。

ファインダーを覗き込みながらこのヤナギと小鳥の名前が思い出せずにいた。思い出すのに時間がかかったり、全く思い出せないことが多くなっている。ヤナギがカワヤナギだと思い出したのは帰路の車の中、小鳥の名前はキーボードを叩いている今になっても思い出せないのだ。いつになったら思い出せるだろうかと野鳥図鑑を広げずにいる。

比良連山の残雪も僅かになった。2・3日内には姿を消してしまうことだろう。

フィールドでは田んぼの畦にいたキジを見る。

一昨年までは3月も半ばのこの頃には複数羽のキジを同時に見かけることがあったが、今季は複数羽を一望することがないのだ。耕作放棄地のヨシ原が3ヶ所3・4年前に刈り払われてなくなった。営巣場所が少なくなっているのだ。見掛けない原因はこれだろうか。

キジが砂浴びをしていた所も葎がなくなり様変わりしてしまっている。キジの砂浴びを見ることはもう出来ないだろう。雛を連れたキジの一家を見たヨシ原も姿を消し水田になっているのだ。時の移ろいとともにいろんなものが変化していく。諸行無常、寂しい限りだ。