小雨の中のキジ

近畿地方が梅雨入りしたと発表のあった16日以来、雨に閉じ込められたように書斎でくすぶっていた。佐藤洋一郎の「イネの文明」を読んでいたがこっくりこっくりしている時間のほうが長いという、半ば以上呆け暮らしだった。どこかで区切りをつけなければ呆け暮らしの深みに沈み込んでしまうと思ったことと、雨のフィールドの様子を見てみたくなり、小雨だったことを幸いに雨支度をして出掛ける。

雨のフィールドは全く静かだった。晴れた日であればうるさいほどに聞こえてくる複数羽のオオヨシキリの啼声も無く、僅かに1羽がお決まりのソングポストで囀っているだけだった。田んぼ道に足を踏み入れれば必ずといいほど頭上にスクランブルをかけてくるケリもいない。カラスもトビもヒバリも見かけずだった。雨の日には雨の日の賑わいがあるのではとの思いは老爺の思い違いのようだった。

空に飛ぶ鳥なく、地に走る獣なし。ただ死人の枯骨を以って標識となすのみ。こんな文言とこれを聴いた「法顕伝」講読の時の山田明爾・龍谷大名誉教授(故人)の朗誦を鮮やかに思い出していた。あの講義を聴いてから10年近くが過ぎている。

三脚に載せレインカバーを被せた重いヤツを持って田んぼ道を歩いている、鳥撮り不作でもいいじゃないの、雨の中に出てきたことが老爺には愉快だった。

遠くの田んぼの畦にいるキジを見つけ妙にホッとした。

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土砂降りの雨の中の濡れそぼつて佇んでいるキジを見てみたいものだ、しかも至近距離で。鮮やかな翅の上を滑り落ちる雨粒、様々な光景を想像しながら、ファインダーを覗き込んでいた。

本日雨天なれど好日だった。