路傍の死

午後から京都に出る。
「輪廻といのちーアビダルマの業・輪廻説に関係してー」(講師 本多至誠相愛大名誉教授)という公開講座龍大大宮キャンパスで行われる日だった。
面白い話が聴けるのではと思い出席したが、案に相違して難解この上もない講義だった。
場違いな所に潜り込んでしまったというか、言葉の解らぬ異邦に足を踏み入れ出るに出られず困り果てている旅人の心境だった。
過去にも何度か講座のタイトルに惹かれて潜り込み、出るに出られず居眠りもならずという苦い経験をしているのに、それでも面白そうだと思うとつい出掛けてしまうのだ。

業と輪廻の話を上の空で聴きながら今朝の散歩の途次路傍で見た虫の死のことを思い出していた。

輪廻説を成立させる二つの考え方「主業説」と「主識説」などという難しいことは全く理解できないが、この虫たちは季節になれば産まれ季節になれば死んでゆくのだ、そんなことを考えていた。
路傍に膝をつくようにしてカメラをかまえ虫の死を覗きこんでいる。
今日は3度もそんなことをやっていたのだ。
「小さな命の終わり」というファイルを持っているが、こんな写真を何故撮っているのか自分でも不思議に思うことがある。