トビと赤いトラクター

今日は少し遠回りしてキジ撮りのフィールドへ入る。遠くの田んぼで春耕をしている赤いトラクターを見かけ、その上空を複数のトビが回っているのを見る。作業をしている田んぼの近くにはトビの小集団がいた。

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一昨日のキジの飛翔体撮りのこともあり、飛びもの撮りの練習とばかりにかなりの枚数のシャッターをきった。トビを追いかけてカメラを振り廻すが、EOS7D+150-600mmでは老躯には重すぎるのだ。35-350mmに1.5テレコンなどをつけてみるか。

本日まずは好日。

 

昨夜遅く、佛大オープンラーニングセンターの講座の一つに、松田和信佛大教授の「仏教入門講座」があるのを見つけ、3月4日開講の最終講座の「忘却の彼方に」が面白そうだったので受講を申し込んだ。

なぜ現在のインドでは古代から続く仏教が存在しないのか。なぜインド伝統の波に飲み込まれて存在意義を失ったのか、などが語られるようだ。

キジが翔ぶ(2)

比良連山から時折冷たい風が吹き降りてくることもあったが、ほぼ終日穏やかな1日だった。午後3時前、キジ撮りのフィールドへ行こうか行くまいかと迷っていたが、気分転換にと出掛けた。来て好かった。キジの飛翔という待望の1枚が撮れたのだ。

遠くの田んぼの畦下で黒いヤツが隠れているのを見つけ、キジだと確認しての1ショットから飛翔体を追いかけられずに空を写している最後の1枚まで、50ショットほどの中からpickupして投稿する。

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畦をトコトコ歩いていたコヤツは一段低い隣の田んぼに降り、しばらくの間姿を見せなかったが、畦下にいることが判っていたので再び現れるのを待つ。顔を出してこちらのいる場所を確認してからヤツは動き出した。

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ヤツは時々立ち止まり振り返ってこちらとの間合いを確認しているようだ。一定の距離をたもってヤツの後を追う。ヤツは何かを探し出しては啄む。何度も啄みながら非常にゆっくりとヨシ原の側を歩き、ついにはヨシ原の中に入っていった。

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ヨシ原の向こう側に出てくるだろうと思い、予定の場所に移動しようと畦道を引き返していて、突然キジのけたたましい鳴声を聞き、振り返る。キジがヨシ原から姿を現し飛び立ったのだ。思いがけぬシーンに慌ててレンズを持ち直した。

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高速連写のシャッターを押し続けながらレンズを振るも、飛翔体撮影の経験不足がもろに画面に現れている。老爺が待ち続けていた1ショットが撮れたのだ。好とすべきだろう。

キジが驚いてヨシ原から飛び出してきたのは、キジの隠れたヨシ原の向こうに、春播きの畑ごしらえに人がやって来たからだった。

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キジの飛翔体撮り、次はいつになるやら。

 

 

ヒヨドリと南天の実

地に落ちることもなく途中でふわっと消えていく小さな雪。こんな雪片が舞ったりやんだりの一日だった。読書(スティーヴン・ジェィ・グールドの「ワンダフルライフ」)に集中することも出来ずの終日の呆け暮らしだった。昼下がり、そんな老爺にヒヨドリの甲高い鳴き声が届く。庭先の南天の実を啄みに来たようだ。秋口には枝先をしならせる程の実が見られたが、啄み続けられ今ではほんの僅かしか残っていない。その最後の実を啄みに来ているのだ。カーテンを少し開けその隙間から覗くと眼の前にヒヨドリがいる。赤い実を一粒嘴に咥えているのだ。シャッターを押したが撮れていない。瞬間のタイムラグだ。機材の所為か老爺の俊敏さの欠けか、いずれとも判らないが。

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南天の実には、運動神経や知覚などを麻痺させる毒(アルカイド系のナンテンニン)が微量ながらある。大量に服すれば運動神経に影響が出るのだ。この故だろうか、鳥たちは一度に大量を啄むことはないと言う。眼の前のヒヨドリも赤い実を一粒飲みこんだ後しばらくの間フエンスの上にいたが、再び実を啄みに南天の木に向かうこともなく、飛び去っていった。ヒヨドリが飛び去った後、窓から顔を出して南天の木を見るに、残されている実はぽつりぽつりと枝先に点在する5粒ほどだった。

 

与謝蕪村の句に、ひよどりのこぼし去ぬる実のあかき という一句がある。この赤い実は何の実だろうか。熟柿を啄んでいる時にこぼした熟柿の欠片だろうか、それとも啄みそこねた南天の実だろうか。

庭先に残された5粒ほどの南天の実、いつ失くなってしまうのだろうか。

明日は大雪のようだ。

寒立ち

高校に入った頃から辞書を読むのが好きで国語辞典や漢和辞典などをよく読んでいた。現在でも白川静さんの「字統」や「字訓」を持ち出すことがよくある。今日もある言葉の意味合いが気になりWebで調べていた時、寒立ちという言葉に出くわした。

「寒立ち」とは「厳寒期にカモシカが早朝に絶壁の突端や高い岩上に現れて数時間立っており、しかも毎日同じ場所に現れること」とあった。この言葉の解説を眼にしながら、随分前に、厳しい底冷えのする京都の辻に立つていた雲水さんのことを思い出していた。碧い眼の若い雲水さんだった。この時10数枚シャッターを切っている。古いデーターなので外付けHDDなども持ち出してみたが該当するファイルが見当たらないのだ。検出に試行錯誤していて、ブログに書いたことを思い出す。

2013年1月27日に「寒行」というタイトルで投稿していた。以下の写真はこの時のもの。寒行の足元を強調したくてトリミング、しかもブログ用に縮小している、この一枚しか残っていないのだ。

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網代笠を被り胸元に木製の持鉢を抱えていた。足元は素足にわらじ。凍てつく街路に立っているのだ、その冷たさに足は赤くなっている。ややうつむき加減で半眼に眼を閉じ、小さな声で経(般若心経だろうか)を唱えていた。碧い眼の若い雲水さんが極寒の中に立っている姿に清々しさを感じていた。このファイルが見つからないのだ。この検出作業の折見つけたものが他に1枚あった。同じ雲水さんのものだった。

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佛大四条センターへ行く途中で、講座に遅れまいと雑踏の中を小走りしていたから、ザックからコンデジを引っ張り出して1ショットしただけだったことを思い出している。

講義を聞きながらも、極寒に見た時以来あの雲水さんは同じ場所に立ち続けれいたのだろうか。静謐な僧堂や山中で瞑想することに比べて、喧騒な雑踏の中での修行は相当に厳しいに違いない。そんなことを考えていたことをいま思い出しいる。こんなことの連想から、福井県小浜の発心寺(曹洞宗)の寒中托鉢の修行が頭に浮かぶ。毎年小寒の頃から節分の頃まで続く小浜の冬の風物詩、雪中の寒行托鉢だ。この行事もこれを撮りたいと思いながらも出掛けられずにいる。寒さに負け道の遠さに負けているのだ。

「寒立ち」いろんなことを思い出させてくれた一語だった。

 寒立ちす 碧き眼の雲水や 京の辻     風来坊

 

赤い革のブックカバーと写真展の案内状

一昨日の書斎の大掃除の折、資料などの整理用に使っているプラの箱(100円ショップで買ったもの)の一つから、思いがけぬものを見つけ出した。赤い革のブックカバーだ。40年近くも前にカミサンが手作りしてくれたヤツだ。現役時代は片道2時間弱の通勤時間、幸いにも座れることが多かったから車中は専ら読書、その時使っていたのがこのブックカバーだったのだ。

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資料などの整理用のプラ箱は全部で7個。新聞の切り抜きやら講演会などでもらった資料、スーパーでもらったレシピの類、手書きのメモ、旅行に行った時手に入れたいろんなパンフ類や観光地図等など、さまざまなものが乱暴に放り込まれている。そいつが机の下の奥に積み重ねられていた。その中の一つにコイツが入っていたのだ。

赤い革のブックカバーにくるまれたヤツは、貝塚茂樹著「古代の復活」講談社だった。

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金属製の栞がページのほぼ真ん中に差し込まれている。いつ頃読んでいたのか、なぜ資料箱の北海道旅行の折のパンフレットの下になっていたのか、まるっきり思い出せないのだ。

最初の頃の赤い革のブックカバーにはなめらかな光沢があった。それが今では老爺の手のひらのように艶もなく干からびて、赤い色を失っている。コイツの仲間、文庫本用の赤い革のブックカバーも同様に年をとっている。私にとってはコイツラはまさに老戦友だ。

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文庫本用のカバーの中は、小山鉄郎著「白川静さんに学ぶ 漢字は楽しい」新潮文庫。栞代わりに「小泉隆行・写真展 春の詩」の案内ハガキが最後の方に挟まれていた。京都へ出掛けた折には必ず立ち寄る写真ギャラリーの一つ「ギャリー&喫茶 繭」のものだった。

赤い革のブックカバー、様々なことを思い出していた。

 

第16回二科会写真部滋賀支部展の案内状を貰っている。

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この写真展は最初の頃からカミサンと二人で観に出掛けていた。しかし今年はカミサンの体調がよくないこともあって一人だけでの鑑賞になりそうだ。

いろんな写真展に出掛けては、カミサンと二人してそれぞれお気に入りの作品を5枚ピックアップし、そのうち欲しいものを一枚差し上げますと言われたら、どの作品を貰うかなどと、写真鑑賞を楽しんでいた。そんな楽しみも今年は無理なようだ、さみしくなる。

 

* もみじてるやまさんから「冬のクモと・・・・・・」のブログにコメントを頂いている。老爺のブログに関心を持ってくれている人がいるのだ。嬉しくなっている。

コメントの指摘に従ってもう一度よく調べなければなるまい。

冬のクモとオンライン講演会のこと

二階の書斎を久しぶりに大掃除するつもりで掃除機を運び上げるが、掃除機が重くなっていて老躯は運び上げるのに難儀している。踊り場で一息ついていて、ベランダの網戸にクモがいるのを見つけた。ゆっくりと動いているのだ。真冬の寒空の下のクモにおっ!という驚きがあり掃除機を放り出して1ショットする。

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何というクモだろうか。成虫で越冬するクモはアシダカグモオニグモ、ヒメグモ、キンイロイエグモ、ハエトリグモの仲間などと、種類は限られているのに、クモ図鑑で調べてみても同定できないのだ。こやつは何というクモだろうか。

虫撮りは随分長い間やってきたが、成虫で越冬する虫たちを見たのは、ウラギンシジミルリタテハ、キチョウ、ホソミオツネントンボ、ナミテントウ、キイロアシナガバチクサギカメムシクロウリハムシ、カマドウマ、ハエトリグモなどごく僅かな種類だけだった。

20年以上も前だが、昆虫写真家今森光彦さんの写真集で、雪を冠った木の下で越冬しているキチョウの写真を見たことから、そんなシーンが撮りたいと、冬の間何度か出掛けたことがあるが思いは叶わずだった。歩いて歩いての偶然がもたらす一瞬がなければ見ることの出来ない光景、それが雪を冠った木の下のキチョウの写真だろう。

越冬中の虫たちを撮れなくても、暖かくなり始めた早春には越冬あけのルリタテハなどを探しに雑木林に潜り込まねばなるまい。

 

昨日のオンライン講演会「人類史的視点からのレジリエンス(危機を生きぬく知)」はタイトルの重みから相当に期待していたが、老爺には薄味に感じられた。このタイトルの中身を語るには90分という講演時間では講師も大変だったと思う。大学の正規の講義だったら1学期は要する内容だ。モンゴルやアンデスなどでのフィールドワークの苦労話なども含め、如何に現地の人たち(あるいは祖先の先住民)がレジリエンスを体現して来ていたかを、じっくりと聞きたいものだ。

 

カワラヒワの集団だろうか

午後遅く、読書の眼休めにと思いキジのフィールドへ行く。残念ながら見渡す限りの冬枯れの野面に鳥の姿を見掛けずだった。上に飛ぶ鳥なく 地に走る獣なし、法顕伝の中のこんな一節を思い出していた。

冬枯れのキジのフィールドから見た比良連山

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このフィールドでは今冬4羽のキジ(♂)を見ている。繁殖期の母衣打ちの様子などを見るのが楽しみだ。

 

鳥撮りを諦め、学校帰りの小学生にレンズを向けていた。

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この時小学生の近接に驚いたのか、カラスとカワラヒワのような小鳥の集団が飛び立っ。急いでレンズを振った。距離がもう少し近ければ面白いシーンが撮れただろうにいかんせん遠いのだ。それに老爺はきちっとレンズを振る為の敏捷さを失っている、証拠写真くらいのものしか撮れていないのだ。

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現在の読書は、スティーヴン・ジェィ・グールドの「ワンダフル・ライフ・・バージェス頁岩と生物進化の物語」、面白いのだが遅々として進まないでいる。かって眼にしたことのない語句(専門用語)に出くわすとその意味が気になり、調べることが多くなるのだ。「葉脚類化石層」の葉脚類ってどんなヤツなのと気になるのだ。その部分をすっ飛ばして読んでも、大意の把握に大きな問題はないのだがそれでもやっぱり気になるのだ。こんな調子だと読了はいつになることやら心配だ。

 

放送大学・京都オンライン講演会「人類史的視点からのレジリエンス(危機を生きぬく知)」が29日(土曜日)に開催されることを知り申し込んだ。YouTubeを使っての講座のようだ。講師・稲村哲也 放送大学特任教授。どんな話が聞けるか楽しみだ。